うな

しがない女装男子

座席裏の禁煙マーク

 

「着陸より離陸の方が苦手だった」と、忘れていたことをまた思い出す。

乗るたびに思って降りるたびに忘れる。

 


脳みそに刻みつけるように記憶していないからだろうか。

 


もう何年も思考がふわふわした状態が続いている。

小さい時に熱中症で脳がやられてしまったのかもしれない。脳科学に詳しくないからわからないけれど、もしそうだったら仕方がない。

 


飛行機が着陸し、持っていたハードカバーを裏返すと汗が光っていた。


空港には不動産屋の人がいかにもな佇まいで待っていて、どう見ても社会人に見えない自分の方から声をかける。


事前に候補に挙げていた物件は全て埋まってしまったらしい。外装がレトロ(ボロい)でリフォームしたての1つをお目当てにしていたので、内心がっかりしながら不動産屋の営業車に乗り込む。


代わりに用意してくれた物件を2つ回って、私は1つ目に決めた。2つ目はベランダから花火が見えて素敵だけれど、ガスストーブがなくて寒そうだった。


内見は1時間で終わってしまった。


帰りの飛行機は明日の昼だからほぼ24時間暇ということになる。

仕方がないので来月から働く職場に顔を出すことにした。


中略


22時半に先輩2人と向かったのは会社の裏にあるバーだった。

2人とも優しいし仕事についての質問には明るい回答(土日は休みであることなど)が返ってくるしで、新天地で働くことが楽しみになっていた。


頃合いかと思った私は、前から聞きたかったことを聞いた。

「仕事ではスーツを着なければいけないのでしょうか」

 

学生のころから制服やスーツに嫌悪感があった。それを社会のスタンダードとして押し付けてくる人間が、喜んで同じ形の服を着る人間が、憎くて仕方がなかった。「装う」という行為を他人に侵されたくなかった。

 


今の職場はどんな服を着ても何も言われなかった。この会社に入って1番良かったと思う理由だ。

 

 

2人はネクタイこそしていないもののジャケットとシャツと革靴を揃えていた。少し間があって年次が上の先輩が言った。

「田舎は人を見た目で判断する人がいる」


なぜか、さっくり刺さってしまった。知っていたはずなのに、リアルで聞こえる実体験はこんなにも威力があるものなんだと思った。

ああ自分はこれから、会社と自分の1番好きだったところをなくすのかもしれないんだ。視界のトーンが1つ下がったみたいに感じた。

 


0時を回ってホテルに着くと、すぐに屋上の温泉へ向かった。

混んでいると思ったのに自分ともう1人しかいない。みんな朝風呂を狙うんだろうか。体を洗ってサウナに入った。


公園の遊具ほど種類がある露天風呂には誰もいなかった。

水風呂で冷え切らなかった体を、それでも風邪をひかないようにとタオルで拭いてから海風に晒した。


ほんの少しだけ、ふわふわした思考が晴れた気がした。さっきのバーで本当はスーツの話よりも、好きなメイクや髪型をして大丈夫なのかを聞きたかった。「見た目で判断する人がいる」という答えは、本当に聞きたかったことへの答えにもなっていた。

 

私はシスジェンダーで、異性装をすることはトランスジェンダーの人ほどアイデンティティになり得ない。周りの目に耐えられなかったら髪を切ってネクタイを締めることができる。死んでしまうほどに苦しくはない。

けれど本当にそれでいいんだろうか。「人の装いに口を出すべきではない」というのはただのわがままなんだろうか。

 

 


みたいなことを考えたところで、自分は言葉で表すことがヘタクソだと思って悲しくなった。体も冷えたので五右衛門風呂的檜風呂に浸かる。

ブログを書くきっかけになった人と会って話したくなった。

 

 

 

翌日は起きて、ご飯を食べて、歩いてバスに乗って、お土産を買って、それから今飛行機で飛んでいる。もうすぐ着陸だとアナウンスが流れた。

 


気づいたら死んでいないように、毎日を一生懸命生きなきゃなって思う。解像度を上げて、それで感じたことを言葉にできるようになりたい。赴任に向かっての準備から始める。